甘い欧州旅行
第七章        
ピーピング・ナイト☆
(1)
 
 パシャッ…
 淡いオレンジ色の照明の中、水面を叩く音が静まり返った室内プールに響く…。
 背泳のまま手足の動きを止めると、プールの内壁にぶつかる波音だけが心地好く耳に届き、まるで宇宙空間に浮かんでいるような錯覚さえ覚えた。
 不意に巨大な窓ガラスへ目を向ければ、大きな針葉樹に降り積もった雪が、自らの重みでどさりと地面に滑り落ち、降り積もった周囲の白と同化する……。
ここはオーストリア、音楽の都ウィーン。
どこか古都の匂いを感じさせる市街地から、少し離れたところにあるホテルの屋内プールにて。
 
「はぁぁ…、やっぱシーズンオフのヨーロッパはいいわね〜 お客さんも手ェかかんないし……って、あー、手かかるのもいたか………基明くんと凌くん……。」
 お客さんも手ェかかんないし……って、あー、手かかるのもいたか………基明くんと凌くん……。」
 この広い空間にたった一人。
 水面に出ている部分の肌で心地好い湿度を感じながら、コバルトブルーのビキニに包まれたしなやかな肢体を仰向けに浮かべ、しばし、この上ない解放感を味わうあたし。
 ふと脳裏に二人の少年(って言ったら、やっぱり怒るだろうな。あのコたち…)の顔がよぎり、眉を少しだけひそめた。
 ざばぁ〜。
 あたしは頭に浮かんだ悪ガキ二人の顔を打ち払うかのように両腕をワンストロークして水を掻くと、ブースの手摺につかまった…………って……な…何? あ…あたしなの?今回?
 え…う…うそ?聞いてないわよ!や…やだ、自分で『しなやかな肢体』とか言っちゃったじゃないっ……
ひぁぁぁぁ〜、はずかしいいいい!! 
 
…その後、両手で水をばちゃばちゃと掻き回すこと数分間………
 
 ………コホン。
 我に返ったあたしは、真顔に戻って咳払いひとつ。……水飛沫に濡れた頬は、未だ赤く染まったままだけど………。
 あ…申し遅れましたが、あたし…いや、わたくし、この旅の添乗員を務めさせていただいてる、加瀬洋子でございます……って、いまさらかしこまって自己紹介でもないか。もうじゅーぶんいろんなコト知ってもらってるみたいだし……。
 ともあれ、現在時刻は、午後9時を回ったところ。唯一お客様のお世話などから解放される貴重な時間である――とはいえ、添乗員というこの仕事、いつなんどき起こり得るアクシデントにも対応できるようにもしておかなくちゃいけないし、またそんな空いた時間も、会社に出す報告書の作成などに追われ、実質帰国するまでは、気の休まるヒマなどほとんどない。
 かく言うあたしも、さっきまで自室で明日のスケジュールのチェックと報告書の作成でウンウンうなっていたのだが(デスクワーク嫌い)……どーにも煮詰まっちゃって……。
  まあ、いわゆる気分転換…とゆーかなんとゆーか、このプールでささやかな憩いのひとときを楽しんでいる…とゆーわけである。
 と言っても…あの二人の顔思い出した時点で、一気に現実に引き戻された気分だけど……。
 
「…ん…でも、まあ、よしとしよう……良いムードメーカーとなってくれてるからな。彼等は……
 それに…基明くんは……んふふ☆」
 誰へとはなしに呟くあたしの表情はいつしか妙な含み笑いに変わっていた。
 …オレンジ色の淡い照明の中、ひとり水に漬かってヘンな笑いを漏らす女……
 はたで誰かが見てたら、きっとこの上なく不気味に思うだろーなー………。
 とその時…、
 カチャリ…
 更衣室へと繋がるドアが開いた。
「え…?ま…まさか、基明君じゃ…?」
 たった今まで思い浮かべていたせいか、反射的に彼のニヤケ顔を連想してしまうあたし。即座に緩んだ顔を元に戻し、眉をひそめる。
 …だが同時に、その内心では淡い期待を抱いている自分もいた……
「あら…洋子さん?」
 しかし、あたしのそんな複雑な思惑に反し、扉から顔を覗かせたのは……
「あ…峰岸さん?」
 そう、お客様の一人、峰岸亜美さんだった。
「へぇ、洋子さん、さすがね… ヨーロッパ旅行に水着を持ってきているのなんて私くらいなものかと思っていたけど……って、添乗員さんだものね、そのくらい当たり前か…」
 ヨーロッパ旅行に水着を持ってきているのなんて私くらいなものかと思っていたけど……って、添乗員さんだものね、そのくらい当たり前か…」
 シックな黒のワンピースの水着に身を包み、長い髪をかき上げながらにっこりと微笑む峰岸さん。
 ふわーぁ、ホント、綺麗なひとだなー……
 ゆったりとした歩調で水際に歩み寄ってくる彼女を見上げつつ、思わず羨望にも似たため息をつくあたし。
 峰岸さんの透き通るような白い肌と、漆黒の水着のコンストラストは、淡い光の中に良く映えていた。
 豊かで形の良いバストから、引き締まったウエストへの流れるように描く曲線。スラリと伸びた長い足。一見、地味に見えるデザインの水着も、彼女の色香を十二分に際立たせており、その均整の取れたプロポーションを引き立てている。
「…………。」
 同性ながらも、思わずしばらくの間、峰岸さんの肢体に見とれてしまうあたし。
 ……はぁぁ、あたしもプロポーションには多少自信があったんだけどなあ……。このひとにはとてもかなわない……っつーより、はり合う気も起こんないや……
「あ…、お一人でのんびりしているところ、お邪魔だったかしら…?」
 惚けているようなあたしの表情を勘違いしたのか、気まずそうな声を発する峰岸さん。
 …と、いっけない!
「は…? あ…い、いえ…! と…とんでもないです。それに私はそろそろ上がろうと思ってましたから……」
 あたしは慌ててそう答え、手摺を握る手に力を込め、水中より身体を引き上げた。
 絞り込むようなその体勢により、あたしの胸元により深い谷間が生まれる。
「よ…っと」
「あら、うふふ、洋子さんて思った通り……」
 プールサイドに立ち、くすくすと笑う峰岸さんの声に顔を上げれば、彼女は覗き込むような視線をあたし…いや、あたしの胸元に向けていた。
 ……え? ちょ…ちょっと、なに…?
「え…? やだ、峰岸さん、そっちのケあるんですか…?」
 咄嗟にあたしは腕組みをするような格好で胸元を隠し、上目使いで彼女を見る。
 ……ううっ、やだよぉ。あたしはノーマルだよぉ……そっちの世界なんか行きたくないよう……
「や…やだ、ち…違うわよ……」
 にわかに戸惑いをあらわにする峰岸さん。どうやら、あたしの不安は単なる思い過ごしだったようだ。
 …ほっ…よかった……って、ま…あたりまえか……。
 だが、あたしがそんな安堵の息を着く傍ら、峰岸さんはなにやら困惑の表情を浮かべて気まずそーに、視線を宙に泳がせていた。
 あ、そーか。
 ひゃー、妙なムードだったから、思わず口にでちゃったけど、結構とんでもないこと言っちゃったのかも………
 遅まきながらここへきて、自分で言った言葉が急に恥ずかしくなり、顔をうつむかせるあたし。
 しばし、気まずい沈黙が二人の間に落ちる……
 そして、
『あ…あの…』
 この状況をなんとかしようと、発したあたしの声は、ものの見事に峰岸さんとかぶった。
 …だからというわけではないけど、どーやら、彼女とはどこか思考回路が似ているようである。まあ年齢(とし)も近いみたいだし……って、三十路間際に年齢のことを考えるのはやめよう……
 ともあれ、それであたしたちの緊張はあっさり瓦解し、次の瞬間にはどちらともなく吹き出していた。
「プ…アハハハ! もうやだぁ。あたし峰岸さんに奪われちゃうのかと思った」
「んふ…、もう、何てこと言うのかしら。洋子さんったら。私はノーマルですわよ」
 ツンっと顎を突き出し、流し目であたしを見下ろすような素振りを見せる峰岸さん。
 勘違いのタカビー女がよくやる仕草だが、彼女がすると妙にバッチリ決まってる……が、しかし、その口元は笑いを堪えるためぴくぴくと引きつっていたりなんかもする……
 あは…そうなのよね。このひとけっこうお茶目なのよね……でも、峰岸さんがそーいう仕草すると、なんか妙にアンバランスで違うイミでカワイイ あたしが男だったら、抱きしめたくなっちゃうところだろーな……って、いかんいかん。あたしがソノ気になってどーする……
 あたしが男だったら、抱きしめたくなっちゃうところだろーな……って、いかんいかん。あたしがソノ気になってどーする……
「あーあ、もう……。こんなとこ凌くんたちに見られなくて良かった」
「あは…、まったく」
 腰に当てていた手を下ろし、軽い溜め息ひとつついて言う峰岸さんに、あたしも苦笑で相槌を打った。
 
「それにしても……ものの見事に誰もいないわねー。監視員とかそーいうホテル関係者の人もいないじゃない……」
 あたしたち以外、誰もいない無人のプールを見回しつつ、呆れたように言う峰岸さん。  
「うーん…ま、シーズンオフの…それも郊外のヨーロッパのホテルなんてこんなものです よ。それにもうこんな時間ですし……よっぽどの物好きじゃないと、プールで泳ごうなんて人は……と、これは失礼……」
「あはははは…いーわよ。気使わなくて。んふふ…そーゆー添乗員さんらしからぬトコも洋子さんの魅力なんだから……」
 またしてもよけーなひとことを発し、あわてて口をつぐんだあたしを、さもおかしそうに笑う峰岸さん。
 うー。しかしそれは褒められてるのか……。
 また、そんなあたしの困惑をよそに、峰岸さんはやや考えたような仕草を見せ、
「でも…そーすると、オールヌードで泳いじゃう…なんてこともできちゃうかしら」
「は?」
 とんでもないセリフをあっさり言う彼女にあたしの目が点になる。
 うあ。な…なんてこといーだすんだこのひとは……。
「い…いや、いくらなんでもそれは……あ、で…でもまあ、あたしがいる間も誰も来なかったし、
ま…まあそれなりに大胆なことは、か…可能なんじゃないかと……」
 冗談とも本気とも取れない峰岸さんの物言いを額面通り受け取り、困惑したあたしは自分でも何を言ってるのか分からなくなる。
「うふふ…やーね。冗談よ冗談。もう、洋子さんったら……。大体…『それなりに大胆』って  そもそもどの程度の大胆さなのかしら〜。教えてくださいませんこと?」
「へ…?い…いやそれは……」
 すーっと目を細めた彼女の流し目で見詰められ、心底困って口ごもるあたし。
 うう…なんかこのツアー、からかわれてばっかりだ。
 でも……さっきの、ほんとーに冗談か?なんか本気でやりそーな気がしたんだけど…このひと……。
 ま…そんなあたしのつまんない疑念はともかく。
 その後、あたしたちは取り止めもない話を続け、しばし時を忘れ……
 ……と、いけない。あたしまだ仕事があったんだっけ。
「えーと…それじゃ、あたしは明日のスケジュールのチェック等ありますので、お先に失礼しますね」
 頃合を見て、話を区切るあたし。
「あ…そうよね。お仕事で来ているんですものね。ふふ…洋子さんって楽しいから、ついその事忘れちゃうわ…。それじゃ、明日もよろしく」
「ええ。こちらこそ。じゃ、ごゆっくり」
 水中へと続く梯子を降りながら手を振る峰岸さんに、軽い会釈で応えて、あたしは更衣室へと足を向けた。
 
 そして、 プール更衣室脇のエレベーターホール。
 さーて、すこしのんびり出来たことだし、部屋戻って一気におしごとやっつけちゃうかなー。
 などと考えつつ、いつものスーツ姿に戻ったあたしがエレベーターを待っていると…
 がーっ。
「あれぇ…、洋子さん?」
 エレベーターの扉が開き、そこに立っていたのは、小脇に丸めたタオルを抱えたラフなTシャツ姿の凌くんだった。
 ふぅん…この格好からするとどうやら彼も……?なんかホントに変わったひと多いわね。このツアー……。
「あら、キミもプール? へぇ〜よく水着持ってきたわね〜?」
 思ったまま意外な声を上げるあたしに、
「ん…あー、上の売店で買ったんだよ。ほら…あの、なんか紙みたいな奴……見る?」
 ああ、そーいや、プールを擁しているこの手のホテルにはそういう使い捨て水着みたいなの用意してあったっけ。冬のヨーロッパで買ってる人は初めて見たけど。
「いーわよそんなもん。見てもしょーがないし……って、基明くんは?」
「え…?洋子さん何言ってンの? あいつがわざわざ金だしてプールで泳ぐような奴だと思う?
 いつもどーり、部屋でごろごろしてるよ。…にしても……」
 言ってすぅーっ、とあたしの全身に視線を走らせる彼。
「ん?」
「もっと早く行けば良かったなぁ。洋子さんの水着姿、見れたのに……」
 なーにを生意気な。
「ふふーん…残念でした。あ…でも、今行けば、峰岸さんがいるわよ。あたしより彼女の水着姿のほうがいいんじゃない…?」
 擦れ違いざま、あたしは肩越しに横目でウインクしてそう告げると、凌くんと入れ代わりにエレベーターに乗り込み……
「ああ…知ってる。それに、峰岸さんのは……」
 ……え?
「え…? 知ってるって……。え…?」
 不可解な彼の言葉に振り返ったあたしだったが、エレベーターの扉はすでに閉じられていた。
 ふう…ん? そう言えば、さっき峰岸さん、『凌くんたち』って言ってたわよね……普通、あの二人のこと言うんなら『基明くんたち』って言うんじゃないかな………? ううむ…これはひょっとして………って、何考えてんのよ。あたしは……
 動き出したエレベーターの中、むくむくと沸き立つ好奇心を慌てて振り払うあたし。
 と、その時。
 チンッ!
 不意に、ひと昔前の電子レンジのような音を立て、エレベーターが止まる。
 ……ん。そ−いえばちょっとおなかすいたな……(こらそこ笑うな)
 と言っても、ここは、まだあたしの部屋の階ではない。
 がーっ。
 扉が開き、入ってくる人のため、一歩後ろに下がるあたしだが……
「……あれ?」
 そこには誰もいなかった。
 ……? じゃ、なんでこんなとこで止まったの?
 ちなみにここは、シーズンオフのため、あまり使われていないセカンドロビーのフロアである。
「うーん……」
 照明等はつけられているが、辺りに人気はなく、しーん、と静まり返った空間。
むろんエレベーターに乗り込んでくる人なども見当たらない。
「うーん……」
 首を傾げながら、扉を閉めようと、操作パネルに手を伸ばすあたし。
 ふと……
 …ん、そーいえば、この階にラウンジあったわよね。確か…プールが見下ろせるようになってる……
 再び、むくむくと頭をもたげ始めた好奇心に勝てず、あたしはついふらふらっ〜と、一歩踏みだし……。
「あ…」
 がーっ。
 気付けば、あたしの後ろでエレベーターの扉が閉じていた。
 えーっと…………。
 自分でも、一体これからなにをしよーとしてるのかが良く分からなくなり、しばしあたしは途方に暮れる。
 ん…でも、ま…まあ、いーじゃない。ちょうど、ちょっとおなかすいたとこだったし……ちょっとラウンジ寄ってこ。お酒は…さすがにまずいけど……そうそう、せっかくだから、ウィンナーコーヒーとザッハトルテでも☆(いや、やっぱオーストリアだし…(^^;)
 などと、好奇心を食欲にすり替えることで、自分自身を納得させ、かくして、あたしはラウンジへと向かった………。
 ほんとか?ほんとーにそーなのか。すでにひとのことなどどーでもよくなってなかったか?
………ザッハトルテ思い出した時点で。あたし……。
 
「ピーピング・ナイト☆」(2)へつづく