夢戦士伝説・U

六本木心中

(1)

 …どさっ。

 くたびれたルイ・ヴィトンのボストンバッグは無造作に投げ落とされた。

「ふう…」

 新緑の若葉が茂る初夏の森の中…

 木洩れ日に向かって手をかざし、土の上に張り出した太い根に腰掛けつつ軽く頭を

傾けながらヘアバンドを解く。

 舞い散る汗と共に、漆黒の髪が肩口にさらりと流れ落ちた。

 訪れたひとときの開放感に、ほっと息つくものの……

「………。」

 周囲の空気の流れはなく木立の中は無風状態……。

 すぐに、足元からのし上がってくる蒸し暑さが疎ましくなってくる。

「…んぅ……。」

 少し遠まきに置きすぎてしまったバッグを恨めしそうに見詰めると、身体をくの字に

折り曲げ、脇腹がつりそうになるくらい右手を伸ばし…

「…しょっ!」

 ぎりぎりのところで中指の先端がショルダーベルトの止め金のところに引っ掛かり、

身体を起こす勢いで、バッグを引き寄せた。

 どうして鞄を取るくらいのことでこんなに苦労しなくてはならないのか……?

 自分の横着さかげんをタナに上げ、なにやら己の運命などを呪いつつ、バッグのファ

スナーを開け、中から革の水袋を取り出す。

 柔々とした液体の感覚がスゥエード越しに手のひらに伝わり…だが、中身はと言え

ば、およそ清涼感とはかけはなれた水…とは言えないぬるま湯。

「はん、アイスノンみたいね……冷たければだけど……」

 知子はあきらさまに不快な表情を浮かべ、しばらくその弾力を確かめるように細い

指先でこねくり回すように弄んだ。

 しばし……。

「………………………。」

 周囲の暑気と疲労が彼女の思考を麻痺させたのか、惚けたような目でその無意味

な行為を続けゆき――――

「あーやめやめ!このまんまじゃ根っ子と同化しちゃうわよ!」

 木の根から伝わる安穏とした誘惑をかぶりを振って断ち切り、知子は勢い良く立ち

上がった。

 そして……

「…凍てつく風よ、我が元に……」

 呟く知子の声にある種の念が込められる。

 言葉を繰り、秘められた力を引き出す……そう、いわゆる魔法の呪文である。
 
キムス
「冷波!」

 低く呟く声が高らかに端を発し、紡がれた『力ある言葉』と自らの魔力によって、彼女

の全身から、じわり染み出でるように白い煙が立ち上ぼった。

 また、にわかに発せられた白い煙――魔力による冷気は、念のコントロールにより、

両手で合わせ持った水袋へ集まっていく。

「うまく調節しないとね…、凍っちゃうから…」

 やがて、手のひらに伝わる皮の感触がひんやりと感じられた頃…

「んっ…こんなもんかな…?」

 知子は精神の集中を解く。

 と同時に、身体にまとわりついていた冷気はその束縛から解放され、木立の中

に舞い散っていった。

「ふぅ……」

 脱力に似た微弱の疲労感を感じつつ、知子は再び根っこに腰を下ろし、あたかも

愛する恋人に口付けるかのように、水袋の吸い口に唇を寄せ……

「お…美味しいッ…☆」

 渇ききった喉に流し込まれた冷水は、どんな銘酒もかなわぬほどの味わい。

 また、局地的に起こった気温の変化が風を呼び、しばし知子は身体の内外ともに

心地好いひとときを過ごせた。

 が……  

「……あー、やっぱ来たわね………」

 吹き抜ける風の中に混じる、妙に生温いぬめっとした不快な気配を感じ、知子は

口元を歪めた。

「ふーん…覚悟はしてたけど、数は十二、三てとこ…? それも『コボルド』風情が?

ったく…ザコが数集めりゃあたしをどうこうできるとでも思ったってわけ…?」

 組んだひざの上で頬杖を突き、口元に嘲るような笑いを浮かべながら呟く知子。

 その言葉通り、気付けば、彼女の周囲を十数体の人型の影が取り囲んでいた。

 もっとも、人型とは言えど、全身は赤茶けた濃い体毛に覆われ、その頭部には人間

のそれとは違い、ぴんと耳を立てた犬の頭が乗っている…。

 そう、彼等は『コボルド』と呼ばれる妖魔であった。 

「…ったくもう、まるで魔力に群がるハイエナだね。あんたたちゃ……」

 包囲の輪を縮め、距離を詰めてくる妖魔達に対し、うんざりしたように言う知子。

 その言葉には、あからさまに侮蔑と嘲笑の念が込められていた。

「グゥォォォ…」

 そんな知子の態度に業を煮やしたかのように、内一頭が低い唸り声を上げた。

「!」

 途端に、知子の猫目が吊り上がる。

「なによっ!何か文句あんのッ!?」

 まるで痴漢を追い払うような口調。

 そして、その一声が戦いの火蓋を切った。

「グオォォッ!」

 低い唸りを不気味な咆哮に変え、地を蹴り唾液の滴る牙をむき出しにして、知子

めがけて突進してくる一頭のコボルド。
                                 
         しゅ
 だが、知子はそれに怯む事なく軽く目を閉じ、すばやく口の中で呪を紡ぎ……

 ヴィン・デム
「砕塵獄!」

 力のこもった言葉を発すると共に、向かい来る『コボルド』の鼻先めがけて右手を翳し

た。

 そう……まるで、じゃれつく飼い犬を懐柔するかのように。

「グォォ…ッ!」

 宙を舞い、飛び掛かるコボルド。しかし、その牙が知子の翳す手に届くより先に、彼女

の発した魔力がコボルドの身体を捕らえた。

 瞬間。

 飛び掛るその体勢のまま、コボルドの身体が空中で静止し……

「ふん、あんたにゃもったいない呪文、使っちゃたわよ」

 眉をひそめて苦笑をもらし、翳していた手を下ろす知子。

 と、同時にコボルドの身体は、瞬時に頭部の方からどす黒く染まっていき、やがて宙を

漂う塵と化した。

 そして、

 …ざあぁぁっ。

 にわかに吹き抜ける風が、 霧のように宙にわだかまっていた黒い塵の塊を虚空へ

と運び…

「さて……」

 その向こうには、何事もなかったかのように残りのコボルドたちを静かに見据える知

子の姿。

 その静かな表情とは裏腹に、ゆらり…妖気を帯びたオーラを身に纏い…。

「…………」

 一方、無残な仲間の死を目の当たりにし、しばし怯んだ様子を見せたコボルドたちで

あったが、それでも失念した様子はなく、再び知子を取り囲み、慎重に攻撃の機を伺い

始めていた。

「ったく…、しょうがない奴等だねぇ。あたしゃ、あんたらみたいな雑魚に合わせたような

呪文は持っちゃいないんだよ…」

 そんな様子をうんざりした様子で眺めまわし、頭を掻きながら面倒臭そうに言う知子。

「……グゥゥ…」

 むろん、コボルドたちに彼女の意思や言葉が理解できるわけもなく、犬頭の妖魔たち

は、各々低い唸り声を口に知子の動きを牽制しつつ、さらにじわじわと包囲の輪を縮め

ていく。

「あ…なーる。一斉に飛び掛かってくりゃ、あたしが捌き切れないって訳ね…脳の少ない

あんたたちにしちゃ、いい作戦だわ…。で・も・ね〜☆」

 にやりと笑みを浮かべた知子の唇が妖しくゆがむ。

 そして知子の読み通り、あとひとかかりの距離まで詰め寄ったたちは、一斉に襲いか

かってきた。

「グオォォォッ!!」

 前後左右…全包囲からの邪悪な牙が知子に迫る。

 が、しかし、 

 アヴォ・レビュー
「降魔従隷印!」

 その瞬間、胸の前で印を結んだ知子の魔力が解放された。

 がっ…きぃぃぃん!

 金属がぶつかり合うような高く澄んだ音が周囲に響き渡り、次の瞬間すべてのコボ

ルドたちは周囲に弾き飛ばされていた。

 そう、言うまでもないが、コボルトたちがじわじわやってる間に、知子は魔力の集中

も呪文の詠唱も終えていたのだ。

 魔法使いを前にして無意味に間を取る事は禁物である。

 その点を踏まえて、今後コボルドたちも気をつけてもらいたいところではあるが……

「グ…グゥゥゥ…」

 ともあれ、得体の知れぬ何かに攻撃をすべて跳ね返され、したたかに身体を地面に

叩き付けられたコボルドたち。やや困惑気味ではあったが、さほどのダメージは受けて

はおらず、直ぐに一匹、二匹と起き上がってきた……が、

「グゥッ…!?」

 おぼつかない足取りで、起き上がった彼等が最後に見たものは、自らを叩き潰すため

に振り降ろされた漆黒の腕…あるいはその先に伸びた長く鋭い爪が己の胸を貫く瞬間

であった……。

「グァ…ォォォォ!ギャゥゥゥ………………」

 刹那にも満たない妖魔たちの断末魔が、木立の中に轟き―――

 そして、

「ご苦労さま。悪かったわね、つまんない用事で呼んじゃって」

 知子が言葉をかけた先には、その両腕をコボルドの血に染めた三体の人型の影が、

彼女に向かって跪いていた。

 黒褐色の体毛で覆われた巨大な体躯。背中には巨大な蝙蝠の翼。頭部には長く鋭い

山羊の角を生やした異形の者達……。

 この世にあらざる世界にその身を置き、凶悪かつ強大な力を持った存在……。
                            
レッサーデーモン
 そう、彼等は呪文によって知子に召喚された『下級魔族』であった。

 『下級』とはいえ、れっきとした魔族の一員である彼らにとって、コボルド退治など、

ほんの些事に過ぎない…どころか、まさに知子の言うように『つまんない用事』であっ

たことだろう。

 ともあれ、

「ありがと。また頼むわね。」

「…………。」
                                
 レッサーデーモン
 軽い口調で礼を告げる知子の言葉に、仕事を終えた下級魔族たちはうやうやしく頷

き、周囲に描かれたそれぞれの魔法陣の中へ足元から沈み込んでいった…彼らの棲

家、魔界へと還って行くのである。

「んふ…、じゃーね…☆」

 軽いウインクで彼らを見送り、

「ふぅーっ、やれやれ、とんだお客さんだったわね。」

 知子は大きく息を吐くと、再び木の根に腰掛けた。

  

「……にしても、ここ、どこらへんなのかな…?昨日越えた川がたぶん多摩川でしょ…

んで、さっき右側に海が見えてたから…おそらく、品川か田町辺り…だと思うんだけど

なぁ…」

 周囲に散らばるコボルド達の死体を塵化の魔法で土に還した後、

 取り出したメンソールのタバコをくわえつつ、変わり果てた…などというレベルではない

かつての首都圏の風景を見渡しながら呟く知子。

「そろそろどっかで、水も食料も補給しなきゃいけないとこ……ん……?」

 指先に点した魔力の炎をタバコに近づけつつ、

 ぞわり……。

 背後からの突き刺すような気配に、知子の動きが止まった。

「んん? なーに、また……え…? こ、コレ…は…違う!?」

 それは明らかに先ほどのコボルド等とは違う、強力な存在の気配であった。

《暗黒の眼…返らざる木霊…霧の爪痕…不動の大気…毒の晩餐……、我に七番目の

月の力、与えよ…》

 久しい身体の戦慄…。知子の口は思うより先に『探知』の呪文を紡いでいた。

  ティーヴ
「喋偵髪…」  

 呪文の発動と共に彼女の髪がざわめき…

 その一本一本に宿された超鋭敏なレーダーが殺気の主を追う。

 だが……

「…!? だ…だめ、何てスピード?このレベルの『探知』じゃ追い切れない…っ!」

 知子の誤算に乗じ、鬱蒼と茂る木立の中より急接近を図る殺気の主。

「や…やば…っ、く…来る…!?」

 その気配が突如鮮明になった瞬間、注意が散漫になっていた側面の茂みから、

 ザシュッ…!

「わわっ!?」

 飛び出してきた白い影に、ほとんどカンだけで飛び退り、からくも先制の一撃を回避

する知子。崩れた体勢を立て直し、殺気の主と対峙し…

「げ……。」

 驚愕の視線で知子が見つめるその先には、白銀に輝く体毛を持つ一匹の獣の姿が

あった。

 そう、体色こそ違え、狼によく似たこの獣は……

「ぎ…銀狼……?」

 銀狼……通常の狼のそれを凌駕する俊敏さと攻撃力を兼ね備え、さらに人語を介す

る高い知能とさまざまな特殊能力を持った、美しくも凶暴な幻獣である。

 しなやかな身のこなしで振り返り、油断なくまっすぐに知子を見据える野獣の視線に、

「ふふ…『銀狼』とはね…。こりゃちょっとばかし分が悪いか…な…?」

 自嘲的な笑みを浮かべつつ、慎重に『銀狼』の動きを牽制する知子。

 そう、魔法使いである彼女にとって、今目の前にいる敵は少々荷が勝ちすぎる相手

であったのだ。

 なぜなら、呪文の詠唱を必要とする魔法攻撃では、俊敏な動きを持つ敵をその効果内

に捕らえることが困難であり、そればかりか、呪文詠唱の間は敵に絶好の攻撃のスキを

与えてしまうからである。

「…んふ、絶体絶命ってやつ…?」

 知子は額から流れる冷たい汗を口元でペロリと舐めた。

 長い一瞬の沈黙が『銀狼』と知子を包み――――――

…………………………… 《失われし見えざる力よ……》

 意を決した知子の口から呪文の詠唱が始まる。

 当然、この機を逃すはずもなく、鋭利な牙を剥きだしにして襲いかかる『銀狼』。

 大気を切り裂く銀色の残像が帯のように長く伸び、その身体が宙に舞った。

 ザシュッ!

 鬼神でも躱せぬほどの必殺の間合いからの一撃。

 だが………

 『銀狼』の牙が捕えたものは知子の身体ではなく、しなやかな黒髪二、三本と、したた

かに大地に打ち付けた鼻先の痛みであった。

「ふう…っ、危なかったぁ…。ちょっとぉ、何のつもりよ! ええ…銀狼さん!?」

 頭上からの声に、鼻先の痛みを堪えながら空を見上げる『銀狼』…。

 そこにはまるで見えない板の上に立っているように宙に浮かび、自分を見下ろす知子

の姿が。
                   
イーザ
「たくもう…かんべんしてよね。『皮翼』なんか使わせるからブラのストラップ切れちゃっ

たじゃない!」

 切れた下着が落ちないように脇を締め、不快な様子をあらわに早口調でまくしたてる

知子。

 驚くべきことに、その背中には先程知子が召喚した魔族と同様、屈強な蝙蝠の翼が

宿っていた。

 ちなみに、翼の根元は服の布を突き破り、腱甲骨辺りに直結している。

 なるほど、肉体の一部を変化させる呪文により、背中に翼を宿し、瞬時に空へと舞い

上がったというわけだ。

 『銀狼』は左右前後への動きに対しては、反応できたのだが、まさかの上への動きは

予測してなかったのである。

 そして、知子は……
                 

「大体なんなのよ!? 本気で殺る気がないんならもっと早めに分かるようにしなさいよ!
                  

こっちゃあ危うくもっとヤバイ呪文使うトコだったんだからね!」

 黒い翼をはためかせ、さらにまくし立てるように『銀狼』に文句を言いつつ、ふわり地面

に着地する知子。同時に翼は瞬時に収縮し、元の背中に戻った。

「ちょっとなんとか言いなよ!わかんでしょ言葉っ?」

 また一方そんな知子の剣幕に、銀狼は意外とコミカルな動作で気圧されたように尾を

丸め、その顎をもごもごと動かし始めた。

「……だ、だってぇ…」

「………へ?」

 銀狼の発した人語は何と少女の声だった。

「え…? な、何なの…アンタ…?」

 さすがに意表を突かれ、驚きをあらわにする知子。

 そのとき『銀狼』の身体がその銀色の体毛を震わせて強く輝き始めると、辺り一面

白銀の光に包まれていった。

「なっ…!?」

 知子は手を翳して視界を確保しつつ、念のため臨戦態勢を取る。
                               
へんぎょう
「え…これって、分子…ううん、原子配列変換…? 変 形するの…?」

 やがて、まばゆい光は一際強い輝きを見せると、弾けるようにその光の粒子を周囲

に飛散させた。

「……あ。」

 そして、開かれた視界の中心にいたのは『銀狼』ではなく、白銀のロングヘアをたず

さえ、うずくまる裸身の少女の姿であった。

 年の頃なら、十六、七くらいだろうか。精悍な顔立ちの中にまだあどけなさを残すその

少女は、恥辱の表情で知子を見据え、片手で胸部をしっかりと抱き抱えていた。

 その締め付けによって、豊満とは言えないまでも、形の良さそうな乳房が苦しそうに押

し潰されている。

「ね、ねぇ〜、そんな大きなバッグ持ってんだから、余分の着替えくらいあるでしょ…?

変身解けちゃったのはそっちのせいもあるんだから…、そんくらい貸してよね!」

 少女は胸を隠しながら、逆側の手を伸ばして知子のボストンバッグを指差し、困惑と

怒りの入り混じったような複雑な表情で訴えた。

「あ…ああ、そ、そうね…ちょっと待って…」

 あまりにも意外な『銀狼』の正体に呆気にとられる知子。

 また、そのせいか、自然と少女の申し出にも素直に従っていた。

「え〜と…?」

 そそくさとバッグのファスナーを開き、小分けしてある衣類の巾着袋の紐を緩める知

子。

 幸い、少女の体型は知子とよく似ており、巾着袋の中にある衣類は上下を問わずどの

服でも彼女に合いそうであった。

 ともあれ、無難なグレーのスポーツタイプの下着の上下を手渡し……

「あ…あたし、それがいいナ、そのその黒のスパッツ…それ…とォ、あ…それ、その

ギャップの長T☆」

 と、少女はいつの間にか知子の隣にしゃがみ込んで、バッグの中を指差していた。

「え…?ちょ…スパッツはいーけど、コレはダメ! あたしもまだソデ通してないんだか

ら!ほらっ、こっちのバナリパのでいいでしょ。はい…!」

 知子は少女が指定した長袖のTシャツを隠し、代わりに地図のバックプリントの付いた

Tシャツを手渡した。

 少女はあからさまに不満の表情を示したが、知子はそれを無視してバッグのファスナ

ーを閉じた。

  

(2)へつづく。

 

 

TOPへ もくじへ