いちばん熱かったあの夏に・・・

いちばん熱かったあの夏に・・・(1)

 五月某日、とある都内の英会話学校、放校後の教室にて。

「ま…マジっすか?」

「おお…和也、いいぜぇハワイ研修は。現地のセンセはブロンドグラマーの美人講師だし、

参加してくんのは可愛いコばっかだしよ…」

 ハワイ研修…この英会話学校が毎年夏休みに行う2週間ほどの短期留学のことで

ある。

 去年、その研修に参加したという和也の先輩は、そのときにできたという彼女と目を

見合わせながら、意気揚々と和也に語った。

「…………。」
          
たちばな かずや
 本編の主人公、橘  和也が夏休みハワイ研修の参加申し込みをしたのは、それ

から数日後のことであった。

  

 成田空港、午後3時。

 夏休みということで、空港内はかなりの人で賑わっていた。

 「えーと、ここでいいはずなんだけど…」

 そんな中、出発カウンター『H』の前に和也の姿があった。

 ちなみに集合時刻は午後5時。

 当然、和也の英会話教室の集合表示はなく、カウンターの中には係員の姿もない。

「うーん、ちと早すぎたかな?」

 当たり前である。

 ご存知だとは思うが、こういった海外へのツアーの集合時刻は、余裕を持ってかなり

早く設定されている。そのことから考えれば、どう早く見積もっても、出発は7時以降

であろう。ただでさえ混み合っているこのシーズンに、フライトの4時間以上前から、

舞い上がって早く来すぎた旅行客の相手をするほど、成田空港はヒマではない。

「……ま、いっか。」

 ともあれ、2時間の待ち時間を強いられた和也だったが、そんなことくらいで、心躍

る興奮は萎えることもなく、彼は、ものめずらしげに出発ロビーをあちらこちらへとう

ろつきまわった。

 ……………………。

「…………ふう。」

 とはいえ、そう広くないここ、成田空港出発ロビー。小一時間ほど過ぎたころ、和也

は大きなスーツケースを転がし人の波を縫って歩くのに飽きてしまい、元のHカウン

ター前へと戻っていた。

 ペンチに座り、再度表示板を見上げるが、未だ英会話教室の集合表示は出ていない。

「うーん……」

 ベンチに座って数分間。元来じっとしていることの苦手な和也は、早くも時間を持て

余し始め、確認とヒマつぶしを兼ねて隣のカウンターにいる係員に声をかけてみるこ

とにした。

「あの、『ESS』の参加者なんですが、集合場所はここでいいんですよね?」

 申し遅れたが、『ESS』とは、和也が通う英会話教室の名称である。

「あ…はい、少々お待ちください………」

 そしてほどなく、和也に尋ねられた女性係員は、机上におかれたファイルを捲り始め…

「……ああ、はい、お客様、確かにそちらで受付け致します。まもなくそちらの係の者

がまいりますので、今しばらくお待ちくださいませ」

「あ、そうすか。どーも…」

 ともあれ、係員の丁寧な応対に、軽い会釈で応え、背後のベンチに戻ろうと振り返った

和也。

 ちょうどその時、

「あったー! ここねここ。おーい舞ちゃーん、ここ、ここだよお、『H』!」

 和也の直ぐ後ろから、舌っ足らずな声が上がり……

 どんっ!

 振り向き様に和也は、よそ見をしながら駆けてきた少女とまともにぶつかってしま

った。

「おおっ!?」

「きゃあっ!」

 よろける和也と、それに突き飛ばされた形になって、しりもちを突く少女。

「あ…ご、ごめん」

 和也は慌てて、手を差し伸べようとする。

 そこへ、

「ああーっ!恵美っ、大丈夫っ? ちょっとぉ!あんた何やってんのよ!?」

 別の方向から、声が一気に近付いてきた。

 驚声と怒声を混じえ、駆け寄ってきた少女は、すぐさま、その場にしゃがみ込み、自ら

が恵美と呼んだ少女の顔を心配そうに覗き込んだ。

「あ、舞ちゃん。えへ…だいじょぶ。ちょっと、痛かったけど……」

 ぺろりと舌を出し、苦笑を浮かべる恵美と呼ばれた少女。

 それを見て、舞という名の少女はほっと息を着くと、やおら和也を睨み付け、

「ちょっと、気を付けなさいよね!」

 ぴしゃりと言ってのけた。

「え…?あ……」

 彼女の迫力に押され、躊躇する和也。

 しかし、振り向き様に近付く人間とぶつかったのだ。何をどう気を付けろと言うのだ

ろうか?

 和也がそんな思いを巡らせていると、 

「何よ、ぼさっと突っ立ってないで、何とか言いなさいよ!」

 立ち上がった彼女は、しなやかな黒髪をなびかせ、さらに和也に詰め寄ってくる。

 多分に圧され気味になった和也だが、この突き放すような一方的な物言いに、

さすがにかちんときて、

「…んだよ!? ぶつかってきたのはそっちだぜ!」

 顎を突き出し、憤然と言い返した。

「……え?」

 和也の言葉に舞はゆっくりと背後へ首を回す。

「……そうなの? 恵美…?」

「……う…うん」

 恵美は和也と舞のやり取りに唖然としていた表情のまま、ばつ悪そうに頷いた。  

 舞はそのままの姿勢で固まり、やがてゆっくりと和也のほうへ向き直る。

「え…え〜っと……」

「……………。」

 そこには引きつった笑みを浮かべる和也の表情が……

       

「……だからぁ、ごめんなさいって、さっきから言ってんじゃない……」

「んだから、もう怒ってないって言ってんだろ!」

 お詫びの印とやらで舞から手渡された、缶ジュースをすすりつつ、和也は眉をひそ

めた。

 あの騒動…というほどのものではないが、ともあれその後、三人はとりあえず、『H』カウン

ター近くのベンチに腰掛けていた。

 聞けば、彼女たちも『ESS』のハワイ研修の参加者だと言う。

 …と、ここで、なぜ和也が彼女たちのことを知らないのかと、思われるかもしれないが、

それにはちょっとした訳がある。

 和也が通う英会話学校「ESS」は都内近郊に展開している、いわば、英会話教室

のチェーン店であり、このハワイ研修は、その本部が参加希望のあったそれぞれの

教室に通う生徒を英語力のレベルで分け、1グループ15名ほどのツアーを組んで

行っていた。

 その理由は、『ESS』自体、さほど大きな英会話学校ではなく、一つの教室だけで

は、ツアーを組むほど人数が集まらないところも出てくるということと、参加者の英語

力があまりにもかけ離れていると、現地での学習プランにバランスが取れなくなる、

というものである。

 また、モノが英会話の研修だけに、顔見知り同士で起こる馴れ合いを防ぐため、

というのもその理由のひとつらしい。

 その事から、参加者は、ここで初顔合わせになることの方が多かった。

 まあ、それはともかく……、

 「ほらぁ、その目…まだ怒ってるよ。えーと……」

 和也の顔色をうかがいつつ、語尾に名前を付けようとして言葉に詰まる舞。

 たちばなかずや
「橘 和也。」

 つっけんどんに言う和也だが、先に言った言葉通り、怒りはとっくに冷めていた。

 ただ、目の前の少女のペースに圧倒され、その意思表示をする間を取り逃がして

いたのだ。

「あ…やだ、あたしたち、まだ名前も知らなかったね……。 ふうん、和也君か。
     
 あまがや  まい 
 あたしは雨谷 舞、んで、こっちが……」
   
すぎやま めぐみ 
「あ、杉山 恵美ですぅ。舞ちゃんとは違うESSなんだけど、学校が同じなんです。

 えーと、和也さん…ですね?よろしくお願いします」

 舞と名乗る少女が、目線で促し、恵美は舞を挟んで和也に深々と頭を下げた。

「お、おう、よろしく…」

 どぎまぎしながら答える和也。

 良く見れば、二人ともなかなかの美少女であった。

 少し癖のある栗色の髪が肩の辺りで切り揃えられ、端正ではあるが、未だあどけ

なさを残す童顔の恵美。 黒のタンクトップにベージュのキュロット、というファッショ

ンが小柄な彼女に良く似合っていた。

 一方、恵美の姉貴分と見受けられる舞は、その言葉や態度が示す通り、はっきり

としたボーイッシュな顔立ちで、特に、猫を思わせるやや吊り上がり気味の目と、

腰の辺りまで 伸ばしたしっとりと長くつややかな黒髪が印象的であった。

 舞のいでたちは、着古しのブルージーンズに白のTシャツ、というラフなスタイルで

あったが、それは活発な彼女の性格を物語っているようで、和也にはやけに眩しく見

えた。

「へえ、タメか?」

「あ…そっちも高二? なあんだ、じゃ、遠慮することないわね。」

「…遠慮なんてしてたのかよ……?」

「ねえねえ、舞ちゃん、タメって、なあに?」

 呟くように言った和也の声は、口を挾んだ恵美の言葉に打ち消された。

「ん…? ああ、同い年って事よ。」

「ふうん、じゃ、あたしより一つ上かぁ…」

 …などとやりつつ、三人はその後も自己紹介をまじえたお喋りを続け、集合時刻まで

の時間を潰した。

 もっとも、口数の多い舞の質問に、和也が答えていただけ、というのがその内容の

ほとんどであったが……。

  

 やがて、時刻は四時半を過ぎ、『H』カウンター近くには、和也たちと同じ『ESS』の

パンフレットを手にした者の姿が目に着くようになる。

 ほどなく、引率の講師らしき三十歳前後の女性が現れ、辺りに散らばる参加者を

呼び寄せた。

「……でね、だから…」

「お…おい、呼んでんぞ、もう行こうぜ。」

 未だ話を止めない舞を制しつつ、和也は席を立った。

 定刻までにはまだ間があったが、参加者は全員揃っていたようだ。

 その数、定員通り十六名。主に中高生を対象とした研修だけに、皆、年も同じくら

いであった。

 引率の講師、依田涼子先生の簡単な説明を聞いた後、参加者面々はいよいよ出

国手続きに向かう。

「……♪…」

 飛行機に乗るのは初めてではなかったが、国際線に乗るのは未経験で、その事か

らか、和也の心は得も知れぬ期待感に浮き足立った。

「なーに? 柄にもなくわくわくしちゃってんの?」

 そんな和也の様子を見透かしたのかのように、前を歩いていた舞が振り返る。

「う…うっせーな、ちゃんと前見て歩けよ。」

 和也はにわかに表情を取り繕うが、口元に浮かんだ笑みまでは消せず、なんとも

複雑な顔になった。

 和也のその表情を見て、ぷっと吹出す舞。

「あははは、やーだ、そんな顔してると出国審査んとき、何か言われるよ!」

 和也が返す言葉を出す間もなく、舞は向き直り様にそう言うと、再び歩みを進め

た。

 彼女の足取りは軽く、さっそうとしていたが、時折肩が小刻みに震える。おそらく、

今 の和也の顔を思いだし、笑いを堪えているのだろう。

「くそ…」

 せっかくの気分を台無しにされ、和也は口の中で悪態をついた。

 そして、

 機内でも、和也は舞に翻弄されっぱなしであった。

「ったく、なんでいちいちここに来んだよ?」

 うんざりした口調で、和也は何度目かの台詞を口にする。

「いいじゃない。退屈なんだから…恵美は寝ちゃってるし、あたしの隣の席の人は

本に夢中みたいだし……」

 幸か不幸か、和也の隣は空席であった。

「だからってなあ、他に…ほら、恵美ちゃんとかいう女の子だっていんだろ? なんだっ

て俺んとこに…」

 そこまで言って、和也はある事をひらめき、

「ははぁ、さては……俺に、惚れた…とか?」

 ここぞとばかりに、からかい気味の口調を交え、意味ありげな視線を舞に向けた。

「……はぁ?」

 その言葉を聞いて、舞は一瞬目を丸くするも……

「うん☆」

 やや間を置き、満面の笑みを浮かべ、頷いた。

「…え?」

 一方、言ってのけたものの多分に照れ臭かった自分の言葉…。そこへ持ってきて、予想

外の舞のリアクションとその笑みがカウンターパンチとなり…

「え…?い…いや、あ…あの…その………」

 たまらず、赤く染まった顔をうつむかせ、舞から目を逸らす和也。

 すると、

「くっ……ぷはははは!」

 途端に、関を切ったように、こらえていた笑いを吹出す舞。

「て…てんめぇ!」

 またしても……。単純な自分を呪いつつ、テレ半分怒り半分の声を張り上げる和也。

 舞のペースに乗せられつつも、本気で嫌がっていない自分を不思議に思いながら……。

 

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