猛々しいその雄姿を連ね、夕陽を浴びて聳え立つ壮大な山々…ロッキー山脈。

　白い山肌を黄金色に輝かせ、悠然と鎮座するその様は、まさしく数多の玉座に佇む

巨人たちのようであった…………………

「メリークリスマス！」

　ロッキー国立公園、詰所の係員にそう声を掛けられたのは、何時間前であったであろ

うか……

　神経すり減らす雪のワインディングロードを抜ければ、フロントガラスから覗く路面は

いつのまにか砂ぼこり舞うアスファルトに変わりつつあった。

　雄大な山々をバックに、西へと伸びるその道は、カナダ大陸横断道路…『トランス・カ

ナダ・ハイウェイ』。

　そんな広大な景色の中、今一台の車が路面に落ちる冬枯れの木々の影を削り取る

ように、駆け抜けていく。

　雪の巻き返しと土ぼこりで薄汚れたホワイトボディのホンダシビック…そのくたびれた

様相が、冬のロッキーの山越えの厳しさを改めて物語っているようだった……

「ふう……」

　地を蹴るタイヤの感触が変わったことを知り、やや緊張をほどいた瞬の口から溜め息

が漏れた。

　冴木瞬(さえきしゅん)…カナダ最西部の州、ブリティッシュコロンビア州の州都、『ヴィクトリア』に

住む日本人留学生である。

　現在彼は、両肩に伸し掛かる疲労を堪え、なけなしの小遣いで買った７年落ちの愛車

を、ただひたすらに西へと向かって走らせていた。

　普段なら、どこか飄々とした感を持つ野生味のある彼の顔立ちなのだが、今はどうに

も疲労の色が濃い………

　そして、

「ねぇ、瞬…、今日はもうこの辺で休んだほうがよくない？……やっぱり、カルガリーか

らバンクーバーへ一気に行こう…ってのは無理だよ……」

　そんな瞬の様子を見兼ねたように、助手席から心配そうな口調で促す声。

　水原由美(みずはらゆみ)…やはり瞬と同じ学校に通う、彼より一つ年下の日本人留学生である。

　猫を思わせる瞳。つややかな漆黒のロングヘア…

　そしてなにより、そのシャープな顔立ちにはアンバランスに思えるほどの大きなバス

トが印象的な、元気で明るい女の子である……のだが、疲労の色を露にしている瞬を

気遣うせいか、さすがに今は、そのなりを潜めていた。

「ね……瞬……」

　努めて明るい表情をつくり、瞬の様子を伺う由美。

　そこには、明らかに疲れた目をして、フロントガラスを射抜くように、輝く地平線を見

つめる瞬の横顔があった。

　『やっぱカナダに来たらスキーだよね！』

　……などと、誰が言ったか知らないが、

　春からの留学生活で仲間も増え、ようやく日々の生活に不便がない程度にはスムーズ

に英語が口から出るようになった……そんな１２月のある日。

　瞬は親しくなった日本人の友達数人と、瞬のポンコツシビック、そしてもう一人の友

人が所有するアウディを繰り出し、ロッキー山脈スキーのメッカ、バンフ・カルガリーへの

スキーツアー！…とシャレこむことになった。

　片道１５時間を超える慣れないロングドライブと、お国柄、整備が行き届いているとは

言え、ほとんど経験のない雪道の運転、などへの多少の不安はあったものの、

　そこはそれ、

　苦楽を共に…というほどのものではないが、異国で知り合いウマが合った仲間同士で

連れ立つ旅行である。

　フタを開けてみれば、先のセリフよろしく、瞬たち面々の旅はその勢いのまま、いやが

おうにも盛り上がり、楽しい冬のロッキーの日々をたっぷり満喫できた。

　そして、あとは復路の運転を残し、無事その全行程を終える…はずであったのだが

………………

　ブロロロォォォンッ。

　自分の様子を伺う由美の視線を感じつつ、瞬は伸し掛かる疲労を断ち切るようにアク

セルを吹かせた。

「……………」

　混迷する思考が時をさかのぼっていく………

　昨晩、ロッキー山脈山あいの観光地、バンフのコテージにて……。

「……つーわけだから、一人で運転大変だとは思うけど、ま…休み休み行けば、なんと

かなんだろ？　あ、それから必要ないとは思うけど、地図は一応由美に渡しといたか

ら…」

「ああ!?」

　明日のロングドライブを控え、やや早めにベッドに就いた瞬。隣のベッドで荷物等を整

理する男…藤井智也(ふじいともや)に、驚きの声を浴びせた。

　ちなみに、彼はカナダでできた友達の中でも特に瞬とウマが合った一人で、現在、瞬

が暮らすヴィクトリアのアパートでのルームメ イトでもある。

「え…ちょ…そ…そりゃどういうこったよ、智也？」

「いや、だから言ったろ？　俺はこのあとＮＹの叔父さんトコ行かなきゃなんないって…」

　慌ててベッドから跳ね起きた瞬に、智也は顔を向けようともせず、何をいまさら、とい

った感で答えた。

「おお、それは知ってんよ。じゃなくて他のメンツまでがどうして？」

　いまひとつ智也の言葉に合点がいかず、さらに問い詰める瞬。

「ん？ああ、何でも和則(かずのり)は、親が、あさってこっちに来るんだって……」

　和則…瞬のほかに車を出したもう一人の友人のことである。

「ああ、そーいや言ってたなそんなこと。で、それが？」

「いや、せっかくだから冬のバンフ、見せてやりたいんだと。だからヴィクトリアじゃなく

て、こっち…カルガリーまで直で来るらしいよ。和則のおふくろさん達……」

「ふーん」

「んで、そうすっと、車がお前の一台だけになっちゃうじゃん？　で…ほかのみんなが全

員、瞬の車に乗って帰んのも無理…だろ？」

「あ…ああ、まあな……って、おい？」

　うなずきつつ黙って聞いていた瞬だが、なにやら話の雲行きが怪しくなり、にわかに顔

色を変えた。

　が、智也は構わず話を続ける。

「でもまあ、他の奴等はまだ、時間的に余裕もあるし……他のところも見ながらグレイハ

ウンド（長距離バス）で帰ることにしたらしいよ」

「い…いや、それはわかるけどよ、それがどーして俺と由美が二人で帰らなきゃなんな

いことになんだよ？　それなら、ゆ…由美だって一緒にいきゃいーじゃんか……」

　冷静に言い募る智也と対称的に瞬はますます困惑した口調で反論する。とくに言葉の

後半はなぜかしどろもどろになっていた。

「あー、その事なんだけど、あいつはホストファミリー（由美の下宿先の家族）が明後日

から旅行に行っちまうから、留守番頼まれてて、あいつだけはどうしても明後日…２５日

までには帰んなきゃいけないんだと。

ま…あいつがひとりＧＨ(バス)で帰るってテもあんだけど…あれだろ？　瞬、お前もビザの更新

でイミグレーションいかなきゃなんねーから、２６日までに帰んなきゃなんねーだろ。

　で…まあ、丁度いいってんで、そういうことになった……と」

　だが智也は多少困った顔にはなったものの、そんな瞬の様子をまったく意に介した

風もなく、事も無げに、瞬が由美と二人きりでヴィクトリアまで帰らねばならない…その

事情を淡々とした口調で告げた。

「……ことになった…って、お前……」

　とはいえ、そう簡単に言われてもむろん瞬は納得できるわけがない。眉にしわを寄

せ、 困惑し切った表情を智也に向けた。

　確かに、智也の言う理屈は分かる。和則の車が使えないとなると、残ったメンバーを

全て瞬の車に乗せることは不可能だろうし、自分と由美の事情を考えれば、そうするの

がベストの方法だろう。

　…しかし、だからといって………。

　まったく予想していなかった旅の終りの展開に、さらに難しい顔になって瞬が考え込ん

でいると、

「ま…いーじゃん。由美なら。知らない仲じゃないんだし」

　まるっきり他人事のように（事実そうだが）、いたって軽い口調で言う智也。

「け…けど、よ、お前とかならともかく、女と二人であの長距離走んのは、めちゃくちゃ

緊張すんぜ…」

「はは……なーにいってんだか。女と二人じゃなくて、由美と二人だからだろ？　おめー

の場合？」

「………っ！」

　か細い、抵抗じみた瞬の言葉を軽い笑いで一蹴する智也。根本そのものをあっさり

ずばりと指摘され、瞬は言葉に詰まる。

「あはは。それにひょっとしたらこれをチャンスに……☆」

「…うるせ、もういい。わーったよ……」

　意味ありげな笑みを浮かべ、さらに追い討ちをかけようとしてきた智也の言葉を遮り、

瞬はゴロリと横たわり、そっぽを向いた。

　にわかに赤らんだ顔と、内心のどきどきをひた隠しにするために……

　こうして、不安と若干の得も知れぬ感情に悩む瞬をよそに、雪深いバンフの夜は静か

に更けていったのだった………

「瞬…？」

「え…？」

　由美の声で、フロントガラスの向こう側、流れていく路面の映像とともに瞬の思考が元

に戻った。

「ほら、あともう少ししたら、カムループスでしょ？　ね…あそこで泊まろうよ……」

「…ああ、そうだな……」

　顔をうつむかせ、ひざの上に広げた地図を見つつ言う由美に、努めて平静を装って

答える瞬。

　だがその実、心は、伸し掛かる疲労を超える躊躇と戸惑いに包まれていた。

　確かに、慣れない異国でのロングドライブに、すでに瞬の体力、集中力は共に限界

であった。

　ちなみに、由美は免許を持っておらず、往路では、数人で代わる代わる交替で運転し

ていたところを一人でぶっ通しなのだ。それも無理からぬことといえるだろう。

　その上、日が落ちて暗くなればさらに運転に集中力を要求される。この疲労のまま、こ

れ以上運転を続けることは、無理…というよりそれこそ命の危険に関わってくる。

　それゆえ、このあたりでそろそろ宿のことを考えなければいけないことは、数時間前…

いや、それこそ昨晩、智也の話を聞いたときから分かっていたことであった。

　しかしながら、その『泊まる』ということ……

　そう…由美とふたりっきりで……

　そんな戸惑いや不安、そしてあらぬ思いが入り交じり、瞬の頭からそれを考えることを

遠ざけていたのだった。

　そして今、昨晩から幾度となく繰り返してきた思いに、瞬の心はひときわ大きく揺れて

いた。

「………」

　とは言っても、黙っていても仕方ない。カムループスまでにはまだすこし間があるし、

ともあれ何か話でもして、動揺と疲労を紛らわそうと、瞬は横目でちらりと由美の様子

を伺ってみる。　また、いきなり目が合っても気まずいので、ひとまず視線を下の方か

ら登らせていこうと思ったのだが、これはちょっとまずかった。

「………」

　そぉーっ、とやや伏し目がちに、眼球だけを動かした瞬の視界に飛び込んできたの

は……

「!?」

　シートベルトが食い込み、くっきりと二つの豊かなふくらみを作り出している由美の

トレーナー……

「!!」

　ぎゅんっ！

　驚いた拍子に、瞬のハンドリングが乱れ、僅かではあるが高速走行をする車体が左

右に揺れた。

「きゃっ!?　ちょ…しゅ…瞬、だいじょぶ？」

「あ…わ…悪い…」

　慌てる由美に、自らも背筋に冷たいものを感じながら、車体を立て直しつつ答える瞬。

「ね…ねえ…瞬……」

「お…おお、それじゃ、カムループスでチェックインするか。そろそろ腹も減ってきたこと

だし…」

　明らかに不安の色を感じさせる由美の声を遮るように、瞬はできるだけ自然な口調で

そう言い、また、いろんな意味で動揺する心を静めるため、ダッシュボードに置いてある

煙草に手を伸ばした。

　が、

　すかっ。

　あるはずの煙草の位置で、瞬の指先が空を切った。

「あれ……？」

「………」

　訝しげに首を傾げ、瞬がふと横を見やれば、眉をひそめ、なにやら不満げな表情を浮

かべた由美がこちらを見ていた。

　また、その手元には瞬の煙草と愛用のジッポーが………

「あ……」

「………」

　戸惑う瞬が口を開く前に、由美は呆れたように目を伏せ、手元の箱から取り出した一

本の煙草を口にくわえ、

　カチンッ…シュ…シュ…シュボッ…………

　ややおぼつかない手つきでそれに火を点し、すっ、と瞬の口元に差し出した。

「え…？………あ、ああ、わ…わり……」

「ケ…ケホ…ッ…『わり…』じゃないわよ！　危ないから、煙草を吸うときはあたしが点

けたげる…って、さっきも言ったじゃない！」

　慣れないタバコの煙に軽くむせながら、憮然とした表情で瞬を睨み付ける由美。

　だがその途中で、何かに気付いたような顔になり、

「…ふぅん、もしかして、あたしと間接キス…とかって、中学生みたいに照れてる？

２２にもなって？」

　すっと目を細め、瞬の横顔を覗き込んで悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「げ…げほっ!?　がほっ…ごほっ……ば…ばかやろ…そんなんじゃねーよ……っと！

カ…カムループスなら、ここで下りねーと……」

　迫る由美の瞳にどぎまぎし、吸い込み過ぎた煙草の煙にはげしく咳き込みながら、

瞬はハンドルを右に切り、ハイウェイの分岐路…カムループスの街へと続く側道に車

を落としていった。

　やがて、

　薄闇に包まれた緩やかなループを描く側道に、瞬たちの車のヘッドライトの光がその

軌跡を辿っていく………。