ハート・オブ・レイン
〜第1章 激しい雨の中で…〜
(1)
〜プロローグ〜 「ほーい、ロットバーガーアップゥ!」 小気味いい声と共に、12個のハンバーガーが乗ったトレイが、サービスカウンターに 送られる。 梅雨入りを間近に控えた、とある日曜の午後。 どこにでもあるようなファーストフード店のその厨房にて。 「………さて……」 一仕事終えた軽いため息ひとつつき、少年はキッチンの壁にかかる時計に目を移し た。 時計の針は4時3分前………間もなく彼の終業時刻である。 「おし……」 ともすれば、抜けそうになる気合いを入れ直し、仕事の区切りに入る少年…… 高山勇樹…本編の主人公にして、都内を中心に展開するハンバーガーショップ、 ここ『シザーズ』でアルバイトに勤しむ、ごくありふれた高校二年生であった。
「あれ…高山ぁ、お前今日4時アップだったっけ?」 そんな勇樹に、隣でグリドルを掃除していた男からとぼけた声がかかった。 もある。 「え…?ええ、そっすけど……」 ともあれ、わかりきってるはずのことを問われ、怪訝な顔で答える勇樹。 すると、宏はグリドルを掃除する手を一時休め、 「あちゃぁ、じゃ、キッチン、今から俺一人かよ……………うーん………」 なにやらわざとらしい物言いを交えながら曲がった腰を伸ばしていく。 「え……?」 長身の宏のにやついた顔に頭半分ほど上から見下ろされ、勇樹はなんとなく本能的 に嫌な予感を覚え半歩退くが…… 「……あ、そーだ。な…高山…ものは相談なんだけどよ……?」 意味ありげな笑みを浮かべ、宏はたった今ひらめいたように言いつつ、勇樹ににじり 寄ってくる。 そんな宏の言葉を先読みし、勇樹はすがるような苦笑を浮かべさらに一歩下がった。 が、 「いーじゃん。ここまできたら、あと5、6時間くらいどーってことねーだろ……」 「じょ…じょーだんじゃないっすよ!それじゃ『通し』になっちゃうじゃないっすかっ!」 まったくシャレにならない宏の一言に、勇樹は今度こそあからさまに嫌な顔を浮かべ、 傲然と言い返した。 そこへ、 「おー高山、お前そろそろアップの時間だぞー」 勤務表を持ったマネージャーが勇樹のアップを告げに、キッチンに顔を出した。 好機到来! 「あー、はいはいはい! そんじゃそーゆーわけで、高山勇樹これにてアップしますっ。 んじゃっ、宏さん、町田さん、おっさきに〜♪」 勇樹はたたみかけるようにそう告げると、立ちふさがる宏の身体を押し退け、キッチ ン出口へと駆け抜ける。 「あ…高山っ、てめっ…ちょ…」 尚も引き止めようと背後から聞こえてくる宏の声を聞こえないふりで躱し、 「じゃ、みなっさ〜ん、お先に失礼しまぁ〜す!」 「おつかれさま〜」 勇樹はサービスカウンターに立ち並ぶ女子スタッフと小気味良い挨拶を交わしつつ、 カウンター横の通用口のドアノブを回した。 バタン…………… 後ろ手にドアを閉めると、 店内のざわめき、厨房機器の発する各種センサー音などのノイズがにわかにかき消 される。 一瞬の静寂と、 「…………」 雨が近いのだろうか、湿った外気の風を感じつつ、勇樹はもはや習慣となった動作で ネクタイを緩め、赤と白、縦じまのユニフォームの第一ボタンを外す。 「ふう………」 頬をつたう汗と共に肩の力がすっと抜け、いつもの心地好い解放感が勇樹の全身を 包んだ…………。
第1章 激しい雨の中で…
この店で勇樹が働き始めて早や3か月。 そもそもこのアルバイト、当初は、軽い小遣い稼ぎとヒマ潰し、また自宅から近いか ら…などという極めていーかげんな動機で始めたものであった。 だが、フタを開けてみれば、高校〜大学生で編成されるバイトスタッフは、同学年の学 校の友達とは一味違った個性派ぞろいで、気のいい連中が多く、勇樹は日を重ねるごと に、金を稼ぐ…ということよりもむしろ、そんな彼らと触れ合うことが次第に楽しみになっ ていき、今ではすっかりこのバイトが気に入っていた。 ともあれ、そんなこんなで、有意義かつ楽しいバイト生活を送る勇樹。 また、最近では彼にもう一つ楽しみなことが増えていた……のだが……
「はぁ……にしても、美奈子ちゃん急オフとはなぁ……」 タイムカードを押すため、事務所へと向かう道すがら、勇樹は軽い落胆のため息と共 に、そうひとりごちる。 と端正な顔立ち、長い黒髪が魅力的な勇樹と同い年の高校二年生……早い話が、現在 勇樹がもっとも気になる女の子である。 つまり、最近出来た勇樹のひそかな楽しみとは、『ここに来れば彼女に会える☆』とい う期待感。 を心待ちにしていたのだが…… 「……あーあ。せっかく、アップもあわせたのになぁ〜」 勇樹は改めて、急用とかでオフになった美奈子の顔を思い出し、もう一度ため息をつ いた。 と、その時、 「おー、勇樹クン、もうアップ?」 開け放たれていた事務所の扉から出てきたのは、勇樹よりひとつ年上の女子スタッフ 河合美沙………だろう。たぶん。 『だろう』と言うのは、ほかでもない。彼女は高々と重ねられた補充用のカップの束を 両手一杯に抱え過ぎなくらい抱えており、こちら側からでは、小柄な彼女の顔はまった く見えなかったためである。 が、この特徴あるハスキーボイスは、間違えようがない。 「…っと、河合さん? またぁ、いくらなんでも持ちすぎだよ……」 呆れたように言いつつ、カップの束を半分ほど取ってやる勇樹。 「あは☆ さんきゅ」 左右に分かたれたカップの束の間から、つやのある栗色の髪と、輝くような美沙の笑 顔が覗いた。 る古株のスタッフの一人である。153センチという小柄な身長と、やや幼く見える童顔 から可愛らしいイメージを受けるが、なかなかどうしてその性格は男勝りで姐御肌。 その小さな身体のどこに …と思わせる程、常に全身からエネルギーが溢れているよう な元気で明るい女の子であった。 当然のことながら、男女を問わずスタッフたちからの好感度は高く、また、加えて言う なら、小柄ながらも緩急に富んだプロポーションの持ち主であることも手伝って、男子ス タッフからの人気は絶大なものがあった。 ……が、残念ながら、彼氏付き。 美沙は冒頭に登場したスタッフのリーダー格『村上宏』の彼女であった。 ともあれ、 「河合さんは何時アップ?」 事務所の前で、なんとなく立ち話状態に入った勇樹と美沙。 「ん…? あたしは5時だよ。あと1時間…あ、そーだ勇樹クン、ヒマだったら待ってて くんない? お茶でも飲みに行こーよ」 「え? うーん、いいけど……宏さんは?」 ちらりと遠慮がちに店の方へと目配せした勇樹に、美沙は思いっきり迷惑そうな表情 で首をぶんぶか横に振り、さらに、 「あ…いや、そ…そーいうわけじゃ……って、あっ! でも俺、金ないんだ……」 すっと目を細め、なにやら妙な迫力を出して詰め寄ってくる美沙にやや怯みながらも、 勇樹はふと自分の懐具合を思い出し、渋い顔になる……が、 「あ…そだ☆」 刹那、脳裏に閃いた妙案に、にんまりと笑みを浮かべ、 「ね…河合さん、ちょっと千円貸してくんない? 5時には返すから…さ」 「んん〜?いーけど。5時には返す…って…?……あぁ〜っ! わかった、『オリオン』 でしょう? だーめ。お茶代ならあたしがおごったげる!だから、おとなしく事務所で待 ってて!」 一瞬、怪訝な顔を浮かべた美沙だが、すぐに勇樹のつもりが分かり、厳しい口調でそ う言った。 ちなみに『オリオン』というのは、現在勇樹がハマって、さんざん散財している近所の パチンコ屋の事である。 「あ…い…いや…で…でも…その………」 「んー?」 「……………はい…わ…わかりました」 何か言い訳をしようとした勇樹だが、なおも視線を外さず睨み付けてくる美沙の大きな 瞳に堪り兼ね、引きつった笑みを浮かべて頷いた。 「ふふーん…よろしい☆ んじゃ、もうちょっと、がんばってくるか!……って、そうそう。 ありがと。はい、カップここに入れて」 そんな勇樹に、美沙はいたずらっぽく微笑み、再度カップの束を受け取ろうと、閉じた 両手の間に隙間を作る。 「あ…いいよ。俺、持ってってあげるよ」 一方、勇樹はそう言って店の方へと踵を返す……が、 「あは、ありがと。でもいーよ。 今『中』に入ってったら、もっかい働かされちゃうかも よ?」 ぎく。 カップの束を持ったまま、美沙に背を向けた勇樹の動きが固まる。 確かに、いかにもありそうな展開である。 「……げ。そ…それはちょっとヤ…かも……」 固まったまま、首だけをぎぎぃーっ、と美沙に向ける勇樹。 「あはは。でしょ? だからほら、乗せた乗せた。………んっ…と」 そして美沙は、そんな勇樹から半ば無理やりにカップの束を受け取り、 「んじゃ、あとでね☆」 そう言って擦れ違いざま、星の出そうなウインクをひとつ。 「……!!」 「ほらぁっ! 河合さんのお帰りだよーっ! 誰か開けなさーいっ!」 通用口のドアをどんどんと蹴飛ばしつつ、叫ぶ美沙の声を背中に、勇樹の頬が赤く染 まった………。
そして5時を過ぎ、 「おっまたせェーッ!」 勢い良く事務所のドアを開けた美沙の声が室内に響き渡った。 ………………。 しかし、何の返事もない。 「……あれ?」 訝しげな顔の美沙が奥の事務机の方へ目を伸ばせば、そこには、椅子に座ったま ま、腕組みをした姿勢で船を漕ぎつつ居眠りをしている勇樹の姿があった。 「…あ。……んふふ☆」 にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべる美沙。ゆっくりと勇樹の背後に近付いていき…… 「わっ!!」 「!! えっ!? な…何…?! うわあっ!?」 ガタンッ! まどろみの中にいた勇樹は突然の美沙の大声に驚き、本能的に立ち上がった。が、 あまりにも勢い良く立ち上がったせいで、急回転した椅子のキャスターに足を取られ、 「わわわわわっ!!」 「キャッ!?」 ばふっ……。 背後に倒れかけた勇樹だが、そこには美沙がいたおかげで、彼女に体をあずけるよ うな形になり、なんとか倒れるのだけは免れた………が。 「あ! ご…ごめん……」 「……いいけど、あやまるのはどいてからにしてくれない? お…重いんですけど……」 振り返り、謝る勇樹に、なにやら苦しそうな美沙の声。 見れば、美沙は脇にあった冷蔵庫の取っ手を握り締め、後ろ向きで倒れ掛けの勇樹 の身体を必死に支えていた。 そして、お約束通り、 ……むにゅ……… 「え…あ………あ!? あぁぁぁっ! や…ごめ…いますぐっ!!」 その現状にか、はたまた背中に感じた柔らかな感触にか、大慌てでその場から飛び 退く勇樹。 すると、 「ん〜? なによ!そんなにびっくりして離れることないじゃない!? あたしゃバイキンで すか?」 途端に美沙は憮然とした顔になり、腰に手を当て、勇樹に詰め寄る。 「え……い…いや、とととんでもない……そ…その…河合さんってハトムネかと思ってた けど、結構あるから……びっくりして……………って、なななな何言ってんだ俺っ!?」 対して、さらにその美沙の迫力に圧された勇樹は、あろうことかとんでもないことを口 走ってしまう。 ここで、ウブな女の子ならポッと頬を赤く染め、黙りこくってしまうところだが、あいにく 美沙はそんなに甘くはない。 「………ふーん? ンで……? 『ありがと』とでも言えばいいの?」 首を傾け、勇樹を下から覗き込むように、冷ややかな笑みを向ける美沙。 「え……あ…い…いや…その………」 「『その』? なあに?」 たまらずしどろもどろになった勇樹を、むろん美沙は逃さず、満面の笑顔で追い詰め る。 そして、とうとう…… 「わぁぁぁっ、ご…ごめんなさい! あ…あの…宏さんには言わないでよォ……」 眼前まで迫った美沙の笑顔にたまりかね、拝み倒して謝る勇樹。 だが、そもそもこうなった原因は美沙にあったのではないだろうか………。 といってもむろん、慌てふためく勇樹にそんな考えが及ぶ由もなく、 「………。」 勇樹は、ただ沈痛な表情で、美沙の顔色を伺うだけ……。 そして、 「………ぷ。」 そんな勇樹の態度がたまらなく可笑しく、美沙は思わず吹き出してしまう。 「くふ…あははは!い…言わないって。こんなこと……もう勇樹クンってホントに…… あはははは!」 「……ほ…ホントに…なんだよぅ……」 また、その一方で、からかわれたことにようやく気付き、口を尖らせて言う勇樹だが、 もちろん、そんな態度は、さらに美沙の笑いを誘うだけ。 「うっくくく……あはははは☆」 やがて、美沙はひとしきり勇樹を笑い倒した後、 「ふふ……んじゃ、着替えてくるから、もうちょっと待っててね……あ、そうそう……」 がちゃこん、とタイムカードをレコーダーに入れ、まだ憮然としている勇樹に振り返っ て、ひとこと。 「ホントに………可愛い…って思ったの☆」 満面の笑顔でそう言い残して、美沙は別ビルにある更衣室へと向かい、元気よく駆け ていった。 「…………」 事務所の中、ふわりと舞った甘い香りと、呆然と立ち尽くす勇樹を残して。 |
(2)へつづく。