ハート・オブ・レイン
〜第1章 激しい雨の中で…〜

 

(3)

 振りかぶる視界の中、勇樹は、確かに…一瞬だけだが、別人のように重く悲しげな表

情を浮かべた美沙の姿を捉えた。

「か…河合…さん…?」 

「え…?あ……あはは。い…いや、そ…そんなことないってこと。ほら…ケンカもする

し…」

 躊躇し、戸惑う勇樹の様子に気付いて、慌てて取り繕う美沙。だが、苦し紛れに浮か

べた笑顔は明らかに不自然で、対する勇樹は、ますます不安を覚えていく。

「あの…さ、なんか、まずいこと言ったかな。俺」

 苦しい笑みを浮かべつつ、ばつ悪そうに言う勇樹。

「や、やだ…そんなことない…よ。全然…」

 美沙は手をばたばたと振り、勇樹の言葉を否定する。

 だが、それっきり、どちらともなく口をつぐんでしまい、

「………」

「………」

 二人の間に、気まずい沈黙が落ちた。

 ……と、そこへ、

「どした? 二人とも。深刻な顔しちゃって……」

 タイミング良く、水を注ぎにきたマスターの声。

 重く伸し掛かりつつあった空気が霧散し、

「え…あ…や…やだ…マスター、なんでもないよ…」

 苦笑を浮かべて応える美沙。

「ふーん」

 関心なさそうな声を上げつつも、優しい笑みを残して去り行くマスター。

 そして美沙は、そんなマスターの背中を、感謝の意を込め見送りつつ、かぶりを振っ

て表情戻し、改めて勇樹に向き直った。

「ねぇ、勇樹クン?」

「ん! な…何!?」

 美沙の問いかけに、慌てて表情を変え、努めて明るく振舞おうとする勇樹。

 だが、沈痛な面持ちと驚き、そしてあわてて浮かべようとした笑みによって、勇樹の

顔面は複雑怪奇にゆがみ、

「…プッ…アハハ! やーだ…何よその顔ぉ? あーもー、そんな勇樹くんがしんぱい

するよーな深刻なことじゃないって!」

 その複雑な表情がおかしかったのか、思わず吹き出す美沙。

「え…あ…い…いや……その……はは……」

 未だ漂いつつあった重い場の空気が一気に氷解し、また、破顔する美沙の様子を見

て、勇樹もようやく緊張の呪縛から逃れることができた。

「……で…?なに言おうとしたの…?」

 ともかく、テレ笑いを浮かべつつ、話を促す勇樹。 

「ん…?んと…あ、そーそー、今度の日曜、勇樹クン、シフト入れてないでしょ?」

「え…? ああ…う…うん」

 気まずいムードがほぐれ、なにやら嬉しそうに軽やかな口調で問い掛けてくる美沙…

いや…それはいいのだが、またもや先の読めないこの問い掛けに、勇樹は、また別の

意味で心配になって、怪訝な顔で頷く。

(…まーた、なに言い出すんだ? このひとは……)

 そんな勇樹の懸念をよそに、美沙が繰り出した言葉は、

「だったらさ、ダブルデートしない? あたしと宏、勇樹クンと美奈子ちゃん、で!」

「へ…? ええええええーっ!?」

 まったく予期せぬ美沙の提案に、心底驚く勇樹。

 一方、美沙はそんな勇樹の反応も予測していたかのように、とびっきりのウインク

を送りつつ、

「大丈夫! あたしにまかせといて!絶対うまくいかせてあげるから☆」

「え……?い…いや…で…ででででも……」

 驚愕に包まれる傍ら、勇樹の頭の中でにわかに期待と不安が入り混じっていく……

 確かに、限りなく不安満載のような申し入れ、そしてまったくもって根拠のかけらも

見当たらない美沙の言葉…だが、願ってもないチャンスであることもまた事実。

 それに………

「ね☆」

 目の前で微笑む輝くような美沙の表情は、なんだか妙に不思議な説得力があるように

思え、次第に勇樹は、なんだか本当になにもかもうまくいくような気になっていく……。

(…う、うーん……)

 長い…一瞬の躊躇の後、

「う…うん……それじゃ……」

「おし!じゃ決まりねっ☆」

 おずおずと頷いた勇樹に、美沙は弾んだ声を上げ、ぱちんと指を鳴らした。

「ええ〜っとぉ…じゃ…さ、場所はどこにしよっか……時間は……」

 そしてその後、ふたりは早速、話を煮詰めていく。

 といっても、そういうことに慣れていない勇樹から、むろん意見など出るわけもなく、
                                
シザーズ
「…じゃぁ、行くトコはディズニーランド、待ち合わせは、『店』の前に朝9時…ってことで

いいね?」

「え…う…うん……」

 ただうなずくだけの勇樹を前に、さくさくとデートメニューを決めていく美沙。

 また……

「いい? ちゃんと美奈子ちゃんを誘うんだよ、できる?」

 美奈子をどーやって誘うか、の段になってしり込みする勇樹に、まるでできそこないの

息子を心配する母のように言う。

「だ…だいじょうぶだよ………たぶん……」 

「たぶん? たぶん…じゃダメ!」 

 自信なさげに弱々しく答える勇樹に、美沙は憤った声を張り上げ、

「……ったくぅ。あーもー、しょーがないなぁ……だからね……」

 やがて、ほとほと困り果てた様子で、『勇樹にもデキる易しい女の子の誘い方☆』、

そのノウハウを語り始める……

「……いーい? 電話とかじゃダメだからねー、こーいうことは……。ちゃんと相手の目

を見て……」

 またそれは次第に、当日の美奈子への接し方、ウマいエスコートの方法…はたまた

男女の恋愛はかくあるべき、といった話にまで及んでいくのだが……

「う…うん…」

 あたかもカウンセラーのように話す美沙に、いちいちうなずいて、勇樹は頭の中でメモ

をとっていった。

       

 そして数日後、

 バイトに入っていた美奈子をつかまえ、かちんかちんに緊張しながら、先日美沙と決

めたことを話す勇樹の姿があった。

 一番心配だった彼女の返事であったが、

「うん。いいよ」

 と、意外にも美奈子はあっさりと承知してくれた。

「え…? ほ…ほんとにっ!?……じゃ…じゃあさ…」

 思わずその場で飛び上がりたくなる衝動をなんとか堪え、努めて冷静を装ってコトの

詳細を告げてゆく勇樹。

 だが、どうしても顔の筋肉は言うことを聞いてくれず、

「………くすくす…」

 ユカイに歪む奇妙な笑顔を披露して、話の途中何度も美奈子に笑われるハメになっ

た……。

  

 また当然といえば当然、と言えるのかもしれないが、この日の勇樹の仕事ぶりは惨

澹たるものであり……

「え?おぉい高山ぁ!ロットなんて言ってねーぞ。ハーフつったべ。ハーフ!」

 …などという、オーダーの聞きまちがえなど、まだいい方で、

「あああっ!高山ぁっ、おめーなにやってんだよ!?バンズ全部真っ黒じゃねーかよっ!」

「あ……すいません…えへへ……」

「あ…ちょ…た…高山?そ…そのポテトの油…そりゃ廃油にしたやつ……あああ〜入れ

ちゃったよ…こいつ…」

「え…?あ…そ…そっか……すいません……えへへ……」

 ……と、一事が万事この有様であった。

 むろん、マネージャーをはじめとする周囲の者に何度も怒鳴られ、注意を促されたのは、

言うまでもないが、もはや日曜日のことで頭が一杯になり、うかれる勇樹にはなんの効果

もなく、周囲はただただ頭を抱えるしかなかった。

 が、もっとも、最後には美沙に、

「こらぁっ!そんなことじゃ日曜日中止にするからねっ!」

 と脅かされ、へらへら笑いを凍り付かせて、どーにかこーにか、正気に戻った勇樹であ

った………。

     

 そして、ダブルデート前夜…午後9時。

 いくらなんでも早すぎる気がしないでもないが、明日の準備万端整えて、勇樹は早め

の床に就こうとしていた。

 そんな時である。

 ちゃっちゃら〜♪ ちゃ〜ららら〜♪

 聞き慣れた『炭鉱節』の機械的なメロディ。勇樹の携帯の着メロである。

 鳴る度に周囲の笑いを誘う陽気でコミカルな旋律だが、このときばかりはなぜか勇樹

は一抹の不安を覚えた。

(………?)

 それでも、取らないわけにはいかない。よぎる不安を打ち消しつつ、最初の一章節が

終わる辺りで、勇樹は充電器の上に置かれた電話を取った。

 ぴ…。

「………はい?」

「あ………勇樹クン? あたし…美沙。あ…あのさ……」

 そして、勇樹の予感は的中した。電話の向こう、ややくぐもった感じの美沙の声は、ほ

どなく、明日のデートを中止にして欲しいとの事を告げた。

 理由は、明日、スタッフの急な欠員が出たため、どうしても美沙がバイトに出なければ

ならなくなった…とのこと。

 もっとも、このような急な要請は、女子スタッフの主格である美沙にとって珍しいことで

はなかった……が、しかし、そもそも予定シフト外のことなので、都合が着かなければも

ちろん断ることができるはずであるし、なにより、先の約束よりもバイトのほうを優先させ

る、というのはどう考えても、美沙らしくない。

 当然、勇樹は納得がいかず、猛然と抗議したのだが、

「…だってしょうがないじゃない」

 事務的に淡々と事の次第を告げる美沙にはとりつくしまもなかった。

 美沙は美奈子には自分のほうから連絡するから、と付け加え、最後に…

「……ごめんね」

「……………え?」

 くぐもった…というより、むしろ湿った感じの美沙の声に驚き、一瞬言葉を失う勇樹。

「あ…ちょ…か…河合さ…」

 すぐさま慌てて言葉を返そうとしたが………

 つーっ…つーっ………。

 すでに遅く、耳に返ってきたのは通話の途絶えた機械音のみ。

 しばし勇樹は、一方的に切れてしまった電話を握り締めて立ちすくみ……

「ふう…」

 そしてほどなく、電話を充電器の上に戻し、ただまんじりとしない顔のまま、ベッドに腰

掛けた。

「………」

 また、しばらくはこの不測の事態にやはり納得できず、腹を立ててもいたのだが、

 いつもとは違っていた美沙の態度が妙に気になり、ややもしないうちにそんな怒りは、

どこへともなく納まっていった。

 そして、

(どう考えてもおかしいよな………?)

 いつも元気な美沙の顔と、今の電話の声はどうしても結びつかない……

 いったい美沙は、どんな顔で言葉を綴っていたのだろう……?

 そんな形にならない想いが、あたかも色の違う粘性の液体が絡まりあうように勇樹の

頭の中で巡り始める……

 ちょうどその時………

 ちゃっちゃら〜♪ ちゃ〜ららら〜♪

 再び、勇樹の耳に『炭鉱節』のメロディが届いた。

 ばっ!

 思うより先に、手に取った携帯のボタンを押す勇樹。

「もしもし! 河合さ………え……?」

 だが、勢い込んで電話に出た勇樹の耳に、返ってきたやや戸惑い気味の声は…

「え……あ…た…高山君…?私…美奈子……。」

 当然のように予想していた美沙のハスキーボイスではなく、何と憧れの美奈子からの

ものであった。

(え…?う…うそ…な…なんで……?)

 戸惑いと困惑が勇樹の頭を巡る。

 はっきり言って、美奈子からの電話など初めての事で、本来なら、感動と緊張のあま

り舞い上がって、まともに応対などできなくなっていたところ……。

 が、しかし勇樹は自分でも不思議に思うほど、なぜか冷静に取り直しており、気が付

けば、ごく普通に突然の美奈子からの電話の要件を聞くに至っていた。

「えっと、あ…あの……何?」

「ん…その、美沙さんから聞いたでしょ? 明日のこと?」

「あ………うん」

「それでね…美沙さんがね、さっきは高山君に中止って言っちゃったけど…良く考えて

みれば、あたしひとりが行けないからって何も中止にすることないんじゃないか…って。

もちろん美沙さんが行かなければ、村上さんは行かないだろうけど、もしよかったら、

二人で行ってくれば?…って。 どうする?」

「え…えええ?」

 いつもの落ち着いた口調で告げる美奈子のその言葉に、驚きの声を上げる勇樹。

 もちろん願ってもない申し出であった。こう言っちゃ悪いが、美沙たちの同行は、美奈

子を誘うことさえできれば、どーでもいいことである。

 むろん、いきなり二人きりで…と言うのには多少不安も残るが、もとより、いざ美奈子

と付き合うということにでもなれば、遅かれ早かれ、二人で出掛けることになるのだ。

 こんなことで尻込みするようでは、それこそお話にならない。

 それに勇樹は先日、美沙と現地での綿密な計画を練った際、ついでにさまざまなパタ

ーンでの女の子のエスコートのノウハウを美沙より伝授してもらった。かつての自分な

らともかく、今なら行ってしまえば、なんとかなりそうな気もする……。

(そーだよ。いつもいつも河合さんがいてくれるわけじゃないんだから……)

「う…うん。じゃ…そうし………」

 頭を巡るいろんな考えに頷いて、この千載一遇のチャンスに応じようとした勇樹…

 だが………

(……ん? あれ……?)

 唐突に覚えた不思議な違和感に、勇樹は首を傾げて口をつぐんだ。

 そういえば、ここ数日、美奈子のことを思う度、その都度何かが引っ掛かかっているよ

うなこの奇妙な違和感を覚えていたような気がする……。

(…?…なんだろう……これ?…)

 胸の内を探り、その正体を突き止めようとする勇樹だが、

「…ん…? なに高山くん? どしたの…?」

 あらぬ想いに耽りそうになる勇樹の耳に届く美奈子の声。

「え…あ…ああ……ごめん……」

「もう……で、ほんとにどーする?」

 躊躇し、口ごもる勇樹に、呆れたように再度問い掛ける美奈子。

 そして、次の瞬間、勇樹は自分でも信じられない言葉を綴り始めていた。

「あ…いや、せっかくだけどさ……やっぱなんかケチついたみたいで、やじゃん?」

「え?」

「それに、まあ宏さんはともかく、河合さんなんか結構楽しみにしてたみたいだったしさ…

…なんかやっぱり気が引けるっていうか………今回はパスしとこうよ?」

(………あれ? 俺、なに言ってんだ……?)

 すらすらと思いもしなかった言葉を並べ立てる自分の口に、驚愕さえ覚える勇樹。まる

で、もう一人の別の自分が喋っているのを聞いているような気分だった。

 そして、美奈子は、

「え?…あ…そっか…それもそうよね。じゃ、それはまた今度ってことで……ふふ……」

 感心し納得したように言った後、軽い笑みを漏らす。

「な…なんだよぅ?」

「え…ううん。ふふ…高山くんって優しいなぁ…って思って。じゃ…おやすみなさい。

 また、バイトでね☆」

「え…?あ…ああ。ばいばい」

 耳をくすぐるような美奈子の声に戸惑いつつも、言葉を返す勇樹。

 ぴ…

 そして、美沙に教わった通り、勇樹は美奈子が電話を切るのを待って、自分も携帯の

スイッチを切った。

「ふう………」

 軽い溜め息ひとつつき、手を頭の後ろで組んでベッドに横になる勇樹。

 デートが中止になって残念なはずなのに、なぜか安堵に似た不思議な笑みが顔の筋

肉を歪ませる。

 あれほど意識していた美奈子に、ごく普通の応対ができたことに対してだろうか……

 それとも………

(………?)

 もう一つの選択枝を思い浮かべようとして、勇樹の顔が強張る。

 また、同時にあの声………美沙からの電話で最後に聞いたあの言葉が、鮮烈に脳裏

に甦ってきた。

(……ごめんね………か……)

「……?ば…ばっかじゃねーの! 俺……」

 思わず声に出てしまったその言葉と共に、勇樹は思いを打ち消すように、ごろりと身体

を傾けた。

 

(4)へつづく。

 

 

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