ハート・オブ・レイン
〜第1章 激しい雨の中で…〜
(5)
………………………。 勇樹はしばらく、書いてある文章の意味がよく理解できなかった。 なにしろ突拍子もないことである。 最初は、”高山勇樹”って誰だ…? そう思ったほどであった。 そして、それを確認するように、急ぎ自然と目がもう一度同じ文面を追っていく……。 《もし… 私の好きになった人が、”高山勇樹”じゃなかったら……》 どうやら、読み違えやカン違いではないようである………が。 ……ということは、つまり………? 「っ!?」 ここへきてようやく、勇樹は大きな驚愕に包まれた。 「う…うそ…だろ……?」 また、なんとか文の読解ができてからも、頭の中は混乱する一方………。 とりあえず、内容は把握したが……… このあまりにも衝撃的な事態に、勇樹はむろん朝食どころではなくなっていた。 「………」 それでもなんとなくごまかしついでに、ハンバーガーをかじってはみたが…… 何の味もしない……ただ、口の中がばさつくだけであった。 「………。」 勇樹は投げ出すように、ハンバーガーをトレイの上に置き、代わりにアイスコーヒーの ストローを引き寄せ、口に運ぶ。 気付かなかったが、喉は渇いていたようだ。口に広がるほろ苦さと冷涼な感じが気持 ち良かった。 また、それが若干気持ちを落ち着けたのか、勇樹はカウンターに目をやる余裕ができ た。 「………え…と…」 おそるおそる美沙の姿を追ってみる勇樹。 だが、つい先ほどまでいた美沙の姿は見えず……その代わりに、 《あー、美沙さん?あっちだよ。あっち…》 そんな困惑気味の勇樹の様子を察したのか、女子スタッフの一人が、カウンター 左にある通用口を指差すジェスチャーをしてくれた。 (ああ、そっか、十時の休憩か……) そう、美沙は朝食休憩のため、事務所に行ったようである。 (…………。) 勇樹はしばらく考えた後、アイスコーヒーの残りを一息で飲み干し、おもむろに席を立 った。 (…もったいね…いつもの俺なら絶対こんなことしねーんだけど……) そんな一瞬の躊躇をまじえて、クリーンボックス(ごみ箱)に食べ残しを捨て、勇樹は店 を後にする。 ありがとうございまーす☆ 小気味いい女子スタッフたちの声を背後に……。
外に出れば、空はよどんだ色の雲に覆われ、まだ午前中だというのに辺りは薄暗い陰 りに包まれていた。 むろん、雨足は先程よりひどくなっており――刹那、瞬く雷光がストロボのように周囲 を閃かせる。 どぉぉぉぉんっ! 次いで、落雷の大音響……どこか近くの避雷針に落ちたのか。 そんな中、勇樹は手に持った傘を差すことも忘れ、店の裏手の薄暗い路地―― 事務所へと向かうその狭い路地を駆けていった。 (けど…いま会ってどうするっていうんだ…俺は…?) 狭い路地を小走りに、自問する勇樹。 だがむろん、そんな答が簡単にでるわけもなく、 「……ぁ…」 気付けば、勇樹は事務所のドアの前に立っていた。 「……くっ……」 ためらいを振り払うように、一度頭を左右に振る勇樹。 髪についた雨の滴が飛散し、やがて勇樹は大きく息を吸い込んで、ドアノブを回す。 がちゃ。 補充用カップや大型冷蔵庫が立ち並ぶ薄暗い事務所の中。 奥の事務用机に目を伸ばして、勇樹は小さく息を飲んだ。 「……あ……」 そこには、まるで手を付けられていない食事を傍らに置き、机に突っ伏している美沙 の姿があった。 「?」 一方、誰かが入ってきたことに気付いた美沙は、むっくりとその身体を起こし、あたか も今まで眠っていたかのような疲れた顔をこちらに向け、 「あ……勇樹クン……か。え…どしたの?」 佇む勇樹に軽い驚きの表情を見せた。前髪からぽたぽたと滴をたらすびしょ濡れの 勇樹を見て。 だがしかし、 「あ………」 思い詰めたような沈痛な表情を浮かべている勇樹の姿に改めて気付くと、 「……ふ…」 美沙は、弱々しい笑みを残して、再び無言で机のほうに向き直った。 その背中はこころなし、震えているように見える。 そして、勇樹は意を決し、声を絞りだした。 「……河合さん…」 自分でも驚くほど、低く沈んだ声だった。 しかし、呼ばれた美沙は肩をぴくっと震わせただけで、黙ったまま。 勇樹はそれを見てもう一度、努めて今度は少し声のトーンを上げ、 「か、河合さん、あのさ……」 がたんっ。 だが勇樹が言い終わらないうち、美沙は静かに立ち上がり、 「通して」 驚いたような顔をしている勇樹を押し退けると、そのまま事務所から出ていってしまった。 「……え……あ、ちょ…か…河合さん…?」 突然の美沙の行動に、壁に押し付けられたまま唖然とする勇樹だが、すぐに我に返り、 美沙の後を追った。 しかし……… (追ってどうする……? けど…このまま放ってはおけない……でも……) 交錯する思いを胸に、事務所の扉を背に左右を見回す勇樹。 すると…… 「か…河合さん!?」 降りしきる雨の中、美沙は薄暗い路地の中ほどの所でうずくまっていた。 「……濡れちゃうよ」 慌てて駆け寄り、今できる精一杯の笑顔でそう言うと、勇樹は手に持った傘を開いて 美沙の頭上にさしかけた。 「…………。」 頭にかかる雨の滴が遮られたことに気付き、美沙は静かに顔を上げる……。 そして、 「……あ…は……同情……?」 切り結んだ唇をわずかに歪ませて。 必死に何かをこらえながらの、重く沈んだ……哀しい笑み……。 「……っ!?」 言葉を失う勇樹。 痛い……きつく締め付けられる痛みを胸に感じて。 ぴかっ! どぉぉぉぉんっ!! 次いで轟いた雷鳴。 気付けば、呆然と佇む勇樹の足元、美沙の表情は、一変していた。 「……なに見てんのよ…?」 静かな……だが重く、吐き捨てるように言う別人のような低い声。 そして…… 「なに見てんのようっ!! 用がないならあっち行ってよっ!!」 堪り兼ねた思いを撒き散らすように、怒りの声を張り上げる美沙。 しっとりと濡れた栗色の髪の奥、潤んだ大きな瞳が真っ直ぐに勇樹を睨み付けてい た。 「…っ……!」 まさしく、空を疾る雷光に射ぬかれたように、勇樹の心は激震した。 といっても、もちろん睨まれたことに憶したからではない。 怒りとはいえ、初めて自分に向けられた美沙の激しい感情を目の当たりにして、勇樹 は、ここ数日ひた隠し押し殺してきた自分の熱い想いに、今、気付いてしまったのだ。 そう……それは、美沙と『One』に行った時、あのときに心の片隅にひっそりとかく れるように生まれたもの……あれから、それは少しずつ…本当に、自分でも気付かない ほど少しずつふくらんでいき……… それが今…… 心の中で音を立てて弾けた…………まさに、そんな感覚であった。 また、勇樹がそんな自らの想いに驚愕し、戸惑う中…… 「な…何してんのよぅ……? どっか…い…いきなさい…って…言って…んの」 足元から聞こえる美沙の声は、いつしか涙でくぐもり途切れ途切れになっていた。 そして、 「…!」 弾けた想いに、勇樹はもう自分を止めることはできなかった。 こらえ切れない想いを胸に、黙ったまま美沙の横にしゃがみ込み、 「……え…?」 「っ!」 震える彼女の両肩を強くつかむと、その小さな身体を力一杯抱きしめた! 勇樹の手から放された傘が、あたかもテントのようになって二つの頭を覆う。 「………ぁ……………っ?」 美沙は突然の事になにがなんだか分からなくなっていた。だが勇樹の体温を肌で感 じ、安堵を覚えている自分に気付くと、あわてて、 「な…何? あ…あたしは……美奈子ちゃん…じゃ…ないよ……?」 つくり笑いを浮かべ、自分の肩に乗っている勇樹の頭に目を移す。 「……ん…」 それを聞いた勇樹は、交差させた頭を元の位置まで戻し、優しい目で美沙を見つめる と、 「いいんだ……」 静かに言って、ゆっくりと美沙の唇に自分の唇を重ねていった。 「……………ん…………」 触れ合う頬に、雨ではない一筋の滴が伝う。 こぼれ落ちた美沙の涙……。 次々に溢れ出る、とても温かい涙が…… またひとつ勇樹の頬を撫でていく………。
一際、小さく感じられる美沙の身体をその腕に抱き、目を閉じた勇樹の意識の奥で、 昨夜と同じように、色の違う様々な粘性の液体が絡まり…溶け合っていく……… …どうしてこうなったのか……そんなことは分からない…… 一時の衝動…? いや違う! 今は……そう、今の自分は…… やがて、どんな色ともつかない美しい色に染まり上がったそれは、ちいさくちいさく濃縮 していき――― …このひとを放ってはおけない! こんな…こんな…可愛いひとを…… …俺…俺は……このひとが……………………好きだ! ―――見えないはずの視界の奥で弾けた。 そう、まさに、『目を閉じたまま』では眩し過ぎる輝きを放って。 刹那、意地の悪い意識が、心に潜んでいた『かつて』の想い人『津島美奈子』の姿を映 し出す…が、しかし今となっては、それもどこか現実味のない色褪せた映像にさえ思え、 また、次々と溢れ出るまばゆいばかりの光の奔流にあっというまに押し流されていき… いつしか、かすんで……消えていった。 …いいんだ……これで……これが…俺の……ほんとうの…気持ち……… もはや押し止めるものは何もない。関を切った想いが勇樹の心を一色に染め上げて いく…… ――降りしきる激しい雨の中――― 背中に回された美沙の小さな手の力が強まるにつれて。
……そして。 どのくらいそうしていたのだろう…… 頭上の、傘を叩く雨音が少し弱まってゆくのを感じた頃…… 「……ん…ゆ…ゆうき…くん……ちょ…ちょっと…苦しい…かも…」 「………あ……!」 慌てて、抱き締める力を緩める勇樹。 勇樹の腕から逃れた美沙はそのまま顔をうつむかせる。 「え…あ…そ…その…お…俺………」 むろん後悔などありはしない。………だがしかし、気持ちの高揚が途切れた今、我な がらだいそれた行動にでた事に気付く。 「あ…い…いや…その……か…河合さん………ご…ゴメ………」 しどろもどろの口調で、なぜか再び顔を伏せてしまった美沙の頭に話しかける勇樹。 すると、 「んんー?」 がばっと顔を起こす美沙。その表情にはいつものイタズラっぽい笑みが浮かんでいた。 「なぁに?ひょっとして、いま『ごめん』とか言おーとした?」 「……え…え…? い…いや…そ…の………」 ある一点を除いて、『いつも』すぎる美沙の態度に、いつも通り圧され、戸惑う勇樹。 もちろん、ある一点…美沙のその頬が紅潮していることには気付かずに……。 そして美沙は、 「もう!あやまるくらいなら最初から……」 言いながら、やや引きつつあった勇樹の顔を引き寄せて、 「え…?あ……」 ちゅ…☆ 「こ・ん・なことしないの!」 美沙はそのまま目を白黒させている勇樹の首にしがみついていき、 「…本当に……」 「……え?」 耳元で囁く美沙の声に、勇樹の顔が真顔に戻る。 「……本当に…あ…あたしでいいの………?」 その問いに答える言葉は、たくさんあった。 だが、どれを選んでも、自分の言葉じゃないような気がして。 「…………」 勇樹はただ、だらりと下がった両腕を美沙の肩に回して、もう一度ぎゅっと抱き締め た。
遠のく雷鳴…… 身も…そして心にも、激しく降りそそいだ初夏の激しい雨が、上がっていく……。 途切れた雲の隙間から差し込む陽光に、きらきらと輝いていく周りの景色。 「…さて、あ…あたし、仕事に戻らなきゃ……あ、アップするまで待っててくれる? また『One』に、お茶でものみに行こーよ……」 「う…うん☆」 立ち上がり、いつかのように、だがどことなくぎこちなく言う美沙に、テレくさそうにうな ずく勇樹。 「えへへ…新しいカレだ…って、マスターに紹介しないとね☆ じゃっ☆」 そう言って踵を返し、店の通用口へと駆けていく美沙の背に…… 勇樹は、一足先に夏の太陽を見たような気がした。 ……って。 「たしか、河合さんのアップって3時じゃ…なかった…っけ…? ………うあああっ!!!! ご…5時間も待つのかよぉーっ!」
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第1章 「激しい雨の中で…」完。
もちろん次回は、ドキドキ☆…(^^;
第2章 「はじめてのスコール☆」につづく……